なんとか元気でやってます

当ブログは頭の中の整理に使いたいと思っています。よろしくお願いいたします。

無知の知

無知の知という言葉がある。
ご存じの方も多いと思うが、ソクラテスの言葉だ。
「私は自分自身がまだまだ何も知らないという事を知っている」という意味だ。
この言葉が巷で使われる時は大体こんな具合である。

A「いやあ、仕事して何年も経つけど、ほんとにわかんない事だらけだよ。困っちゃうよね。アホすぎて嫌になるわ。」
B「いやでもそれは無知の知ってやつだよ。自分のダメさ加減を理解してるって事はそれだけそのものを理解してるってことだよ。君はアホなんかじゃない。」

Bの言うことに大体同意である。
ただしかし。
なんでもかんでも、「知らないことを知っている事」に対して「無知の知」という言葉を使うのには抵抗がある。
なぜなら、物事は不安になり始めた時からが本番だからである。

例えば何かの資格を取得するために勉強するとなったとき。
勉強を始める前は「こんな試験なんとかなるんじゃね?」と思ったりする。
しかし、勉強を始めるにつれて、その問題の難しさに気づいていく。
そして、不安になる。
「あれも知らないし、これだってちゃんと出来るとは言えない。どうしよう、受かるかな?あと2週間しかないのに…」
この感情は、ある程度何かに打ち込んだ人なら誰しも経験しているはずだ。
この不安が出たら、よく勉強してきた証拠だと思っていいだろう。
(尚、ここで、ぜんぜん不安になったりせずに、ソクラテスの論敵のように自分の無知さを自覚せず、人に偉そうに教える連中はもちろん論外なので除外することとする。)

しかし。しかしだ。
ここでこの不安に負けて勉強をやめてしまったらどうだろう。
人は不安や恐怖などというものを避けて通ろうとする本能を持っている。
であれば、こうした不安に負けて易きに流れることも往々にしてあるのだ。
私の知り合いは大学受験の時、2次試験の重圧に負けて、それまでは相当勉強してたにも関わらず、センター試験が終わってから2次試験までの1ヶ月、ほとんど勉強していなかった。
結果は言うまでもないだろう。

ここで最初の話に戻る。
無知の知が肯定的に使われても良いのは、その人が無知に恐れおののきながらもなお、その不安に耐えて努力し続けている時にのみである。
これが私の言いたいことだ。
自分の無知に気づいていながら努力を怠った者のそれは、無知の知ではない。ただの無知への開き直りである。
自分は何も知らないということを知っているという事それだけでは、全く持って意味がないのである。
知らないことに対してリアルな危機感を抱き、努力し続けなければならない。(もちろん、自戒も込めて。)