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当ブログは頭の中の整理に使いたいと思っています。よろしくお願いいたします。

科学とオカルト

久々のブログ。
ちょっとした思念に囚われ始めると、こうなってしまいます笑

さて今日は、学部1年の時のレポートを読み返してみたらなかなか面白かったので、公開したいと思います。
荒々しい出来、かつ、基本的に飲茶さんのブログのパクリなんですが…。
まんまコピーなので読みにくいですが、良かったら読んでみてください。


「科学とオカルト」

1. 序論

私は昔から、非科学的なものに興味がある。
これはもちろん、科学的なものには興味がないと言いたいわけではない。
むしろ私は、科学崇拝者であって、科学を絶対視するような思想の持ち主である。
しかし、現代が科学的、合理的である事が最も重要視されるような時代でありながら、
尚もまだ、非科学的、または非科学的に思われているものが世の中にはたくさんある。

宗教、星占い、超能力、幽霊など…
それらと科学が共存していることが妙に心に引っかかったのである。
このレポートは、科学とオカルト(非科学的なもの)の違いはどこにあるのかを
明らかにすることを目的として書いた。その過程において、
科学やオカルトとは何であるかについても突き詰めて考えてゆきたいと思う。


2. 本論

2-1. 科学とは何か、その歴史

科学を辞書で引いてみると、「《 science 》一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果としての体系的知識。研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。」とある。
科学は認識活動と、その成果による体系的知識の事を指すようだ。
つまり、認識活動が出来ないものについては、科学ではないということである。
哲学的に、人間の認識活動の限界について語るのは
もう一つレポートが出来てしまいそうなので、ここでは割愛したいところではあるが、
近年の脳科学で判明している事実からも分かる通り、人間の認識活動というのは存外に脆い。
私は、科学とは何か、偉大な、絶対的な力を持つものだという幻想をいだいていたが、
単なる人間の認識活動の成果に過ぎないのだとすれば、
この考えは間違いというよりないだろう。



ここで、科学の歴史について考えてみる。
科学というものの歴史的始まりはベーコンの帰納主義からと言われている。
ベーコンは帰納をもとに科学を作ろうと考えた。
この考えの問題点は言うまでもなくわかるだろう。
どれだけの観察結果を集めたとしても、それを一般法則化することは不可能である。
1万回失敗したからといって、10001回目が失敗するとは限らないように。
加えて、自分に都合の良い観察結果だけを集めて、
あたかも科学的であるかのように振る舞うこともできてしまう。
しかし、科学とは何かというものについて提言したことの歴史的価値は大きいように思う。
これ以降、人類は「穴のない」科学、すなわち科学と疑似科学を見分けることに苦闘する。

ウィーン学団は、ある理論において、その理論の何もかもすべてを論理的に説明できる事、
そしてそれらの理論が実験や観察によって実証されている事実かどうかという観点(論理実証主義と呼ばれる)でもって、科学と疑似科学を選別しようとした。
理論というものは、分解に分解を重ねれば、公理の集まりによって成り立っているものである。科学と疑似科学の選別に際して、ウィーン学団はその公理が正しいか、
観察可能かどうかを判断しようとしたのである。

これは一見素晴らしい考え方に見える。
しかし、ウィーン学団の選別はおそろしい結果を迎える。
なんと、これほどまでに厳密に考えていった結果、どの理論においても、
「欠点のある公理」―つまり、根拠のない飛躍が含まれている事がわかったのである。
結局、厳密に考えれば、科学と疑似科学を分けるというどころか、
この世の中には疑似科学しかないのだと突き付けられたわけである。
これはにわかには信じがたい。
しかしながら、例えば、「平行線は交わらない」という高校で習ってきた知識に関しても、
本当に交わらないかどうかなどは説明できないだろう。
実際に、Webで調べてみたところ、今をもってまだ証明されていないようだ。
こういった事はほとんど自明の事として証明することすらしないが、
「自明である」というのは人間の思い込みであるかもしれない。

このようにして、絶対に正しいものはわからないという事がわかってしまったあと、
妥協案とも言える主義が提唱される。これがポパー反証主義である。
ポパーは著書「科学的発見の論理」の中で、科学の定義を
「反証可能なリスクを負うもの」とした。
反証可能とは、観察や実験によって、間違っているのではないかと証拠を突き付けられうる事を言う。つまり、絶対的に正しいものが何であるかは誰にも分からないが、
何が間違っているかについて証明することが出来るものを科学と呼ぼうというスタンスである。

現代の「科学」はこの考えを元に築かれている。
しかしながら、これを科学とする事が絶対的に間違っていないかと言われれば、
そうとは言い切れない。いかなる理論も徹底的に疑ってかかれば、
間違いではないかと指摘する事は出来る。
前提条件を疑うのである。

たとえば、ある新理論が出来たとする。
そのとき、その理論を構築する際に使った実験器具が正常であるかを疑う。
その器具が正常であるかどうかを調べるために、別の器具を用いる必要がある。
しかし、今度はその器具が正常であるかが疑われてしまう。
万一それらが正しかったとしても、こう言われてしまえばおしまいだ。
「あなた(がた)の頭が正常かどうか証明してください。」
ポパーもこの問題に気づいており、同著の中で、

「結局、このような疑いを乗り越えて、何らかの科学理論を構築するためには、どこかで疑いを止める地点を<決断>しなくてはならない」

と述べている。
これは、科学を絶対的に信頼していた私にとっては衝撃的な内容である。

結局のところ最終的には、主観的に決断しなければならないのだ。
それならば、宗教を信じる事とあまり何も変わらないではないか!


2-2オカルトとは何か

まず、例によってオカルトという言葉を辞書で引いてみる。
「1.超自然の現象。神秘的現象。2.目に見えないこと。隠れて見えないこと。」とある。
何の事やら、正直よくわからない。実際、オカルトという言葉を聞くと、
ほとんどの人は「なんだかよくわからない、説明の出来ない、非科学的なもの」
という説明しかできないのではないだろうか。

私のように、科学を絶対視する思想を持つ(持っていた)人にとって、
オカルトとは忌避すべき、時代錯誤のものと映る。
つまり、オカルトというのは現代において、「科学ではない何か」を適当に放り込んでおく、
ブラックボックス的な役割を果たしていると言える。
しかし、こういった「枠」で非科学的なものをくくるのは大きな危険をはらんでいる。

たとえば、宗教と星占いでは、そもそも根底にある思想がまるで違う。
宗教においては、まず神ありきである。神を公理にすえている。
(仏教においては、これとは違うように思うが、ここでは論をわかりやすくするため割愛する)
対して星占いは、「宇宙にあるすべての物質は、ある一定の法則に従って、
必然的に動くものである」という思想をもとに作られているものである。
その思想を人間にまで延長させて、ある人が生まれた時の、
主要な星(地球、火星、木星土星…etc)の位置によって、
その人がどのような運命を辿るのか、どのような行動を取るのか、
どのような性格なのかを長い歴史の中で分析し、統計学的に現したものなのである。
星占いに精通している知人の言葉を借りれば、「星座占いは統計学である」。

こうしてみるにつけ、宗教と星占いはまるで性格の違うものであるとわかる。


人間はとかく、自分のわからないものについては大まかにレッテルを貼ってしまい、
「これはこういうものだ」と納得してしまおうとする性質を持っているが、
これは本質を見抜く上で大きな弊害となる。
オカルトという枠でくくることなく、不思議なものがあればそれを個々に見て、
それがどういうものかを探る態度が必要である。
妖怪や幽霊などは、死者の魂を畏怖する事から生まれたものであろうし、
UFOなどはオカルトとして語るべきではなく、大いに可能性のあるものであろう。
この広大な宇宙に人間以外の生物がいたとしても何ら不思議ではない。


3. 終章と感想

科学を絶対視するものは、とかく宗教を手当たり次第に否定したがる傾向にあるように思う。「そんなものはないよ。科学的に証明されていない」と。かく言う私がそうであった。
しかし、ゲーデルが著書「不完全性定理」の中で述べたとおり、

「我々がどんなに公理を選択して、無矛盾に見える論理体系を構築しようとも、その論理体系の無矛盾を自分の論理体系の中で証明することは不可能であるため、選んだ公理が本当に正しいのか証明することは絶対に出来ない」。

科学という論理体系を選択したとしても
、神という別の公理を持っている宗教を否定する事は、お門違いである。

よって、はじめの私の疑問である、
「なぜ科学と非科学が共存しうるのか?」という疑問は、見当違いであったとわかる。
科学的態度で宗教を批判することは出来ないし、宗教的態度で科学を批判することもまた、
出来ないのである。そして、どちらが優れているでもない。

私は、科学が絶対的に正しいからこそ、科学を学ぶべきなのだという思想を持っていた。
しかし、何もかも絶対に正しいと証明されているものは何もない。
自分が信じている道を進むよりないのである。
足元がぐらついたような気分でもあり、また、「知ること」を知ったような気分になり、
高揚している。
今まで以上に知ることが楽しくなった。



参考文献リスト

「よくわかる宗教社会学」 櫻井義秀・三木英 編著
魍魎の匣京極夏彦
「街場の現代思想内田樹
「星占いのしくみ」石井ゆかり
「図解雑学 哲学」貫成人著
「哲学的な何か あと科学とか」 飲茶著
不完全性定理ゲーデル
「科学的発見の論理」ポパー